2008年09月04日
枯死寸前

なんとか 蘇生させたいと 管理しているが 家内を含む身内は もう 諦めなさい と 苦言を呈している。 でも 救えるものなら 今日の 空のように なって呉れれば と 縋るような 思いで 養生している。
分子生物学で言う 生は 受精に始まり 死は 個体の最後の細胞が 機能を失った時に 終わるとしている。 だから まだ 枯死していない と 言うのが 私の主張だ。 機能的には 半ば諦めているのですが 意地になっているのでしょう。
翻って 人間の生・死には 様々な とらえ方があるようだ。 分子生物学的に 考えるのは 仏教であり キリスト教でもある。 つまり 受胎を 生の始まりとする文化だ。
医学の先端では 唯脳主義に基ずき 生は 受胎後数週間後に始まる 脳の形成を始期とし 死は 脳の機能停止を持って 終りとする。 だから 受胎後 脳が出来るまでは 人ではないから 実験に供することは 差支えない と 言う意見もある。 また 死は 当然に脳死主義となる。
法律では 頭部の露出を以て 出生(人格の取得)とし 心臓の停止を持って 死としている 所謂 心臓停止主義だ。 それでも 遺体の処理は 24時間後に と 慎重に規定している。 相続については 胎児も 出生者として 相続権を 認めている。
一般には 心臓の停止に加え 体温の放出を以て 死と認識しているようだ。 生まれと 死との 定義は 中々 難しいものですね。 余計なことを 申し上げて ご免なさい。
鉢植えの 温州みかんが 奇跡的に 蘇って欲しいと 近頃は 祈りの 毎日を 過ごしている。

Posted by 無陀仏 at 16:00│Comments(0)
│日記 エッセイ
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